清子の思ひで
私にとって、最も古い記憶といえば、大正十二年九月一日の関東大震災である。それ以前のことは、全く記憶に残っていない。
その日の衝撃が、あまりにも大きかったので、他のことは、すべてがかすんでしまったのかもしれない。あれから、もう八十余年経つ。しかし、あの震災は、日本の地震史の最大級に位するものと、私には、いまだに鮮烈な記憶なのである。
正午に近かった。ちょうど、家族そろって昼食をとろうとした途端、食卓がひっくり返った。びっくりして立ち上がったがよろよろして歩けない。五歳の私と九歳の姉、三歳の妹の三姉妹は、泣き出したいのをじっと我慢して、父と母に抱きついていった。
第一震、第二震 ──
どのくらい続いたかは覚えていない。ただ恐ろしさのみで震えていた。やがて、その地震は止まったが、ホッとする間もなく、何か周囲がガヤガヤしてきた。
「あそこが火事、ここも危ない。どこかへ避難しなくては・・・・・」と、大人たちが騒いでいる。今までに感じたことのない、切迫した気配であった。
私たち子供三人は、ひとまず母と一緒に、すぐ裏の広徳寺の墓地へ避難した。一応、恐ろしさがおさまってみると、母と一緒に行動する連帯感が、この緊迫した情況とは裏腹に、何となく面白くなってきた。
あやしい雲が空を覆い、無気味だった。そのうちに、父があたふたと駆けてきて、
「ここにいても危ない。すぐ、上野の山へ行こう!」といった。
母と子供たちは、荷物を整えるためにいったん家に戻った。すでに父は、どこからか大八車を三台都合をつけてきており、丁稚(見習い店員)に手伝わせ、これに家財道具を積み始めていた。
私は、着物の残り布で作った小さなカバンを提げた。中には絵本と鉛筆と帳面(ノート)が入っていた。それだけが、私には大切な宝物であった。
上野の屏風坂に、四方を箪笥や戸棚で囲んだ仮の宿をしつらえ、母と子供三人はうずくまった。母のお腹が目立った。母は懐妊していたのである。
夜がふけて行くのと共に、空の赤さが鮮明になり、深夜十二時の頃には、空も下界も一面火の海となった。その火の粉が、ときどき頬にかかってくる。
「大丈夫か?布をかぶって寝なさい」
箪笥の壁の外側から、父が案じてくれた。
妹と私は、いつの間にやら深い眠りに落ち、目覚めたときには、もう夜はすっかり明けていた。周囲の情況は、また一変していて騒々しい。
夜明けと共に、人々は右往左往していた。むやみに歩き、また走り回る人人人で、ちよっと箪笥の壁の外側へ出て行くことも困難な混雑さであった。ああ、私の家も焼けてしまった。
しかし、それは子供のことだ。あまり寂しい気はしなかった。それよりも、お腹がすいていてたまらない。
「もう少し、我慢していてね。おとなしく待っていれば、今にきっと、おじいちゃんが何か持ってきてくれるよ」
母がいった。どういう訳か必ず来ると信じているのだった。
祖父は、当時すでに隠居していたが、昔は浅草で一、二を争う大工の棟梁だった。腕もよかったが気っ風もよく、特に義侠心に富んでいたのである。
しばらく待つと、案の定、全身汗ぐっしょりで、ゆでダコのような顔のおじいちゃんが、人混みの中から現れた。尋ね尋ねてきたものらしく、ふうふう荒い息をしている。祖父はかついでいた木の箱を下ろし、まず、私たち子供にいった。
「おむすびだ。みんなお腹をすかしていたろう。さあ、早く食べなさい」
私をはじめ、みんな飛びついていただいた。しかし不思議なことに、箱の中にはおむすびの山が半分、あと半分のスペースには、銅貨、銀貨、札がいっぱい入っている。
「おじいちゃん、このお金、どうしたの?」
「このお金か、これはな・・・・・」
おじいちゃんの話によれば、祖父は来る途中で、私たちと同じ避難民にせがまれ、とうとう、おむすびの山の半分をみんなにやってしまったという。お金は、そのお礼に、みんなが入れたものだということであった。