清子の思ひで
祖父、祖母とも一緒に暮らしたことのない私たち子供三人は、家族が増え、かつてない家庭環境に変わって、むしろはしゃぎまわった。父は、翌日にはもう朝早くから丁稚をともない外出して行った。「焼け出されて困った」などと一言も弱音を吐く父ではなかった。むしろ今まで以上に張り切って、上機嫌に見えた。新しい局面を切り開いて行こうとする気迫が顔に満ちていた。
母は座敷中に綱を張りめぐらし、その上に白い布を巻き、雨に濡れた着物を一枚一枚丁寧に掛けていった。時々、「ああ助かった」とか「あらこんなに──」と残念がる声が聞こえてくる。二、三日干してから一枚一枚きちんとたたんで、箪笥に収める。とても嬉しそうな顔、とても悲しそうな顔、着物って、こんなにも女の心をとらえてしまう大切なものなのか、と私は幼心に沁みいった。
一週間もすると私たちはまた引越をすることになった。灰燼に帰した東京のなかにも、大震災の劫火を幸運にも避けられた地域が何箇所かにあった。毎日朝早くから出かけていた父は、焼け残ったところをつぶさに探し、その中で一番近い根岸に一軒のお店を確保した。鶯谷の駅から坂を降りて行くと、もう店が見えて来る。好い立地であった。ひさしの張った瓦屋根の二階建てで、軒にはつばめの巣がある。古いけれど重々しい感じの家である。
父は早速お店を開き、肌着製造卸の職業を肌着類小売業に転換した。火事ですべてを失った人々には、こよなく有り難い必需品だ。お店は終日人だかりがし、商品は売れた、売れた。おなかの大きい母までが手伝わねばならない繁盛ぶりだった。父のとった緊急処置は見事に成功した。
やがて焼け野原の下町のあちこちにバラックが建ちはじめた。父の次にとった対策は上車坂の焼けた家の再建である。建築の好きな父は、毎日自転車で建築場に足を運んだ。自転車に乗った父の前に、小さな私はほとんど一緒に乗せられた。お昼になると上野駅前の食堂で暖かい真っ白なご飯をふうふう言いながら食べることがとても楽しかった。「美味しいかい」、「ウン」、満足気に口一杯にして答える私の顔を見るのが、父にも張り合いだったのか、ほとんど毎日連れて行ってくれた。