清子の思ひで
震災後のバラック建築から、本建築へと、東京市内のあちこちで建て直しがみえはじめた。同時に各所に区画整理がはじまった。私の店の前の通りも、大幅に広くなり、東京で一番路幅の広い昭和通りに面することになった。父は、震災直後の躍進を、この時期にも再現しようと図った。昭和通りにふさわしい店舗造りに挑戦したのである。開拓精神旺盛な父は、そうした転換期に際して、奮然と元気が出て、家庭の中でも終始ご機嫌であった。
母は、世の中がどんなに変わろうと鈴木家が変化していこうという時期でも、つねに安定を保って、黙々と五人の子どもの養育と、大ぜいの社員の食事の世話などに必死だった。
そして僅かな間をみつけては、汚れた着物を丁寧にほどき、ふのりで洗って、裏の空地に張り板を立て、張物に精出した。袖、身頃、衽、衿と順々にふのりを浸した絹の布を伸ばしながら、手際よく張っていった。
塀に立てかけた五、六枚の張り板に、小春日和のうららかな陽が注ぎ、間もなく乾くと、張り板を裏返して、また陽に当てる。見ている間に、次々と布地は乾いていく。すっかり乾いた布を端からスウスウとはがしていく。絹ずれの心地よい音は、静かな空間に快い旋律をもたらした。
母にとって、朝から晩まで、多忙な家事の合間の、心の安らぎの作業にみえて、こども心にも美しい光景として灼きついた。紺絣の筒袖の上っ張りに、ねずみ地のお召の前掛姿。前掛けの赤い紐が、いかにも女らしかった。
あの頃の日本は?
大正から昭和へ。東京・上野に東京府美術館(現=東京都美術館)が開館し、文学では川端康成の「伊豆の踊子」が発刊されました