第3回 江戸、そして大奥へ

巽櫓(たつみやぐら)と桔梗濠(ききょうほり)
桔梗濠に影を落とす巽櫓。敵の攻撃に対処するために造られた櫓は20基あったといわれていますが、現在残るのは富士見櫓、伏見櫓とここだけ。東京駅から皇居に向かって直進した場所にあり、時代劇のような雰囲気を醸しています。

次期将軍家祥(いえさち)(後の家定)の正室として白羽の矢を立てられた篤姫でしたが、ペリー来航、十二代将軍家慶(いえよし)の薨去(こうきょ)、京都御所の焼失、さらに安政の大地震が江戸の町を襲い、篤姫の入輿(じゅよ)はたびたび延期されました。
ようやく情勢が整い、篤姫が江戸城に入ったのは、22歳のときのこと。しかし、そこから本当の意味で、将軍継嗣問題の密命を帯びた篤姫にとっての苦闘の日々が始まりました。
つわもの揃いの大奥の舵取りをする中、わずか1年半で夫・家定とは死別。十四代家茂の母として激動の時代を支えようとしますが、嫁・和宮との御風違いによる対立、さらに家茂の死、徳川幕府の終焉と、運命は篤姫に過酷な試練を与え続けたのでした。

御台所という女性の最高権力者にまでのぼりつめた篤姫でしたが、大奥での暮らしは決して平穏ではありませんでした。

陰謀渦巻く女の園で、本当の夫婦になれないままに夫に先立たれ、養父斉彬の慶喜を将軍継嗣にするという密命も果たすこともできませんでした。

その一方、時代の大波は徳川幕府崩壊に向けて刻々と迫っていました。それを感じながら、毅然として逆風の中を歩み続けたのでした。

椿、花
尚古集成館所蔵
尚古集成館所蔵

頭脳明晰で世情にも聡かったと伝えられる篤姫は、この時代の女性には珍しく数多くの手紙を残しています。力強く思い切りの良い筆跡が、篤姫の性格を物語っています。(写真提供/鹿児島市尚古集成館)

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