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第3回 龍馬の青春、そして覚醒 ~東京・神奈川~

江戸遊学
嘉永6年(1853)、藩に願い出て15ヶ月間の江戸遊学の許可を得た龍馬は、寄宿先の土佐藩中屋敷からほど近い、北辰一刀流の千葉定吉道場に入門しました。龍馬が江戸に着いて約2ヶ月後、黒船艦隊を率いたペリーが浦賀に来航しました。幕府の命を受けて土佐藩は、江戸湾警備のために江戸詰の藩士を品川に送り、龍馬もその任務に就いたと言われています。19才の多感な年頃に、歴史的なこの出来事に遭遇したことが、その後の龍馬の運命を大きく変えることとなりました。 黒船の威力に衝撃を受けた龍馬は、佐久間象山の塾に入門し、西洋砲術を学びます。翌年、再びペリーは来航して開国をせまり、幕府は日米和親条約を締結。時代の大きなうねりを感じながら、龍馬は土佐に帰国します。 この頃、高知城下にはアメリカから帰国したジョン・万次郎から直接話を聞いて、「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)」にまとめた絵師河田小龍がいました。西洋の知識に詳しく、開明的な意見を持つ小龍との出会いは、龍馬は大きな刺激を与えました。後に、龍馬が開設した海援隊は、このとき小龍から授かった知識がヒントになったと言われています。

千葉定吉道場跡
龍馬の江戸における剣術の師匠・北辰一刀流の千葉定吉の道場があったといわれる鍛冶橋交差点付近。定吉は、江戸三大道場の1つ北辰一刀流の開祖千葉周作の実弟であり、周作の「大千葉」に対し「小千葉」と呼ばれていました。
土佐藩上屋敷跡
かつての土佐藩上屋敷は、鍛冶橋門を入った左側にあり、現在は東京国際フォーラムの敷地となっています。龍馬が寄宿した中屋敷は、築地の中央区役所などが立ち並ぶ一角にありました。
ペリー公園
ペリー上陸を記念する公園で、園内にはペリー上陸当時のジオラマや歴史的資料を展示した資料館、ペリーの胸像、記念碑などがあります。
■神奈川県横須賀市久里浜7-14
浜川砲台跡
黒船来航時、江戸に剣術修行に来ていた龍馬は、藩兵の一人として江戸湾の警護に着きました。
■浜川砲台跡 東京都品川区東大井2丁目
坂本龍馬像
京浜急行電鉄立会川駅前にある坂本龍馬像は、浜川砲台跡地より敷石の一部が発見されたことを記念し、高知市より寄贈されたもの。

再び江戸へ
安政3年(1856)、米国総領事ハリスが下田に着任した翌月、龍馬は2度目の江戸遊学を果たします。このときは同じく剣術修行のために上京した武市半平太と同宿でした。再び千葉定吉道場に通う一方、千葉周作が創設した神田お玉が池玄武道場でも腕を磨いたと言われています。黒船来航以来、幕府権力は目に見えて弱体化し、尊皇攘夷の声が全国に広まりつつありました。龍馬や武市の耳にも様々な情報が入ったに違いありません。
1年間の修行を終え、龍馬が土佐に戻る2か月前に安政の大獄が起こり、土佐藩では山内容堂が謹慎となるなど、厳しい処分がありました。そして万延元年(1860)、桜田門外の変によって大老井伊直弼が暗殺されると、全国の攘夷運動が一気に加速。武市半平太が結成した土佐勤王党に、血気にはやる25歳の龍馬も加盟しました。しかし、武市は公武合体派の吉田東洋暗殺計画を練るなど、目的のためなら手段を選ばない過激性を帯び始め、龍馬は次第に土佐勤王党の活動に違和感を持つようになりました。文久2年(1862)、自分の信じる攘夷を全うするために龍馬は脱藩。土佐勤王党員によって吉田東洋が暗殺されるわずか15日前のことでした。

玄武館道場跡
桃井春蔵の士学館、斎藤弥九郎の撃剣館とならんで、江戸の三大道場といわれた玄武館は、神田お玉が池に千葉周作が創設。2度目の江戸剣術修行で、龍馬は千葉定吉道場だけでなく玄武館道場にも通い、山岡鉄太郎(鉄舟)らと交流しました。
■千代田区神田東松下町
千葉佐那の墓
北辰一刀流千葉定吉の次女。小太刀の名手として知られ、その美貌から「千葉の鬼小町」と呼ばれました。2度目の江戸修行中、龍馬と佐那は相思相愛となり婚約しましたが、国事に奔走する龍馬とは次第に疎遠となり、龍馬はお龍と結婚。やがて暗殺されました。龍馬の死後も独身を通したと言われています。墓石には「坂本龍馬室」と彫られ、佐那の一途な思いが伝わるかのようです。
■山梨県甲府市朝日5丁目 清運寺
千住の灸千葉灸冶院跡
明治21年(1888)佐那は、千住の灸千葉灸冶院を開業。
東京都足立区千住仲町1番1号
国道4号線、墨提通りの交差点付近にありました。
生麦事件跡地の石碑
文久2年(1862年)横浜郊外の生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士が殺傷(死亡1名負傷2名)したことから、薩英戦争に発展。攘夷運動を加速させる原因となりました。かつての事件現場はキリンビール工場の前。
■横浜市鶴見区生麦1-16
生麦事件参考館
生麦事件をとりあげた書籍、浮世絵、写真などの貴重な資料を展示しています。
■横浜市鶴見区生麦1-11 (要予約) 詳細は電話045-503-3710まで

コラム 龍馬の恋

龍馬は妻お龍のほかに、生涯2人の女性を愛したと言われています。初恋の人平井加尾、そして婚約者であった千葉佐那です。
幼馴染であった加尾とは、龍馬が江戸遊学したことで淡い恋は立ち消えとなります。さらに龍馬が土佐勤王党と決別したことで、その別れは決定的なものとなりました。その一方、加尾には尊皇攘夷運動に加担する一面もあり、脱藩後の龍馬は加尾の援助で京に潜伏するなど、色恋を超えた同志的な友情で結ばれていたと思われます。
龍馬と熱愛し婚約まで交わしながら、叶わぬままに生涯独身を貫いたのが、千葉佐那でした。文武の才能に秀で乗馬や剣術をこなす美貌の佐那に、龍馬は姉乙女の面影を重ねていたのだろうか。乙女への手紙には佐那の美点が書き綴ってあり、坂本家の人も一目置いた存在でした。龍馬は帰郷の折、片袖を引きちぎり形見として佐那に渡したと言われています。それほどに相思相愛であったにも関わらず、龍馬がお龍と結婚したことでこの恋は終止符を打ちました。


運命の師・勝海舟との出会い
武市半平太と袂を分かったことが、その後の龍馬を決定づける出会いに結び付きました。脱藩後、龍馬は攘夷の気持ちに燃えながら長州、京都、下関、九州を巡り、自分の進むべき道を模索していました。そして江戸に出て、越前藩主松平春嶽に会い、さらにその紹介で勝海舟と出会います。当時、海舟はすでに日米修好条約批准のために咸臨丸で米国を視察した経験があり、軍艦奉行を務めていました。龍馬が海舟に会った目的は、開国派の海舟を斬るためであったことが、春嶽の手紙や海舟の書物に書かれています。
しかし、龍馬は目的を達成することができませんでした。逆に海舟から攘夷が不可能であることや、貿易の重要性、海軍の必要性を説かれたのでした。すでに河田小龍から西洋の情報を聞き、黒船の威力を目の当たりにし、自らも西洋砲術を修行していた龍馬にとって、海舟の話は共感を持って受け入れることのできるものでした。大きく視野を開かされ、新しい国づくりの展望を聞き、龍馬は海舟こそ自分の師であることを確信したに違いありません。龍馬は海舟の門下生となって、幕末動乱の荒海に漕ぎ出しました。

勝海舟像
■東京都墨田区墨田区役所

勝海舟生誕地の碑
■墨田区両国4-25-3 両国公園内

勝海舟の別邸跡(洗足池公園)と墓
■大田区南千束二丁目14番5号

本覚寺
安政6年(1859)横浜開港にあたり、伊豆下田を引き払ったアメリカ公使ハリスは、この寺をアメリカ領事館として用いました。山門には白ペンキが塗られ、境内の松の木に星条旗がたてられたといわれています。寺は高台にあり、横浜港が一望できます。
■神奈川県横浜市神奈川区高島台1-2

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