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「花燃ゆ」の旅

第1回 世界文化遺産富岡製糸場と楫取素彦

「花燃ゆ」の主人公・杉文(すぎ ふみ)は、幕末を揺るがした思想家・吉田松陰の妹。

松陰の願いで松陰が指導する松下村塾の門下生・久坂玄瑞に15歳で嫁ぎましたが、幕末動乱の中で兄と夫を相次いで亡くしました。
未亡人となった文は毛利家に仕え、毛利元昭の守り役を務めました。39歳の時、姉・寿が病死すると、母・滝のすすめで寿の夫だった楫取素彦と再婚。文は、日本の近代化に尽力する素彦を支え、穏やかな晩年を送りました。

富岡製糸場は、その楫取素彦ゆかりの地。産業振興を願い、富岡製糸場の存続のために力を尽くした素彦を、文が支えました。

楫取素彦ってどんな人?

楫取素彦(1829-1912)は、現在の山口県萩市出身。江戸遊学中に松陰と親交を深め、松陰の後継者として松下村塾を牽引し、薩長同盟に尽力。
維新後は、新政府の参与として仕え、足柄県参事、熊谷県権令、群馬県初代県令に就任し、養蚕・製糸・織物など群馬県の産業振興に大いに寄与しました。
在任中、妻・寿を病気で亡くし、2年後文と再婚。後に男爵の地位を授けられ、貴族院議員としても活躍しました。

富岡製糸場の危機を救った素彦

群馬県の県令時代(1876-1884)、素彦の最も大きな功績の一つが、閉場が検討されていた国営富岡製糸場の危機を救ったことです。
もしも、このとき素彦が閉場反対の意見書を政府に提出していなかったら、富岡製糸場が世界文化遺産に登録されることはなかったかもしれません。

左・正門を入ってすぐの東繭倉庫。幅12.3メートル、長さ104.3メートルの堂々たる煉瓦造りに圧倒される。
中・正門
右・東繭倉庫の中央アーチ部分には、アーチを固定する要石があり、建設された「明治五年」の文字が彫られている

富岡製糸場のちょこっと歴史

富岡製糸場は、群馬県富岡市で官営模範工場として明治5年に(1872)操業開始。殖産興業の一環として誕生した近代的な西洋式器械製糸場で、5.5ヘクタールの広大な敷地に木骨煉瓦造りの操糸所や繭倉庫、工女宿舎など、西洋風の美しい建物が残され、当時の人々の文明開化への情熱を偲ぶことができます。

中庭に面した西繭倉庫。規模は東繭倉庫とほぼ同じ。この瀟洒な建物に1年分の繭を保管した。

ブリュナ館
製糸場全体の指導を行ったフランス人のポール・ブリュナとその家族が3年間暮らした住まい。高床式コロニアル様式の美しい建物。ブリュナ帰国後は工女のための夜学校や寄宿舎として利用された。

女工館
操糸技術指導を行うフランス人女性教師のために建てられた。

期待を担ってスタートした富岡製糸場ですが、外国人指導者らの高額な報酬により経費負担が増大し経営を圧迫。県令に就任した素彦は、生糸の直接輸出先の開拓を支援するなど力を尽くします。1884年、素彦が群馬県令を退任。その9年後、民間払い下げが決まり、三井を経て片倉工業が受け継ぎましたが、不振により1994年に操業停止。その後も「貸さない・売らない・壊さない」方針で富岡製糸場を守り抜き、2014年6月「富岡製糸場と絹産業遺産群」は世界文化遺産に登録されました。

操糸所
長さ140.4メートル、幅12.3メートルの建物の中で、工女たちのしなやかな手で繭から良質な生糸を取った。

操糸所には大きな窓があり、日の光が取り入れられている。高い天井はトラス式構造で、建物の中に柱はない。明治5年にすでにこの建物が建てられていたことに驚く。

ブリュナ館の後ろにそびえる煙突は、高さ37.5メートル

富岡製糸場
住所:群馬県富岡市富岡1-1
☎0274-64-0005
URL:http://www.tomioka-silk.jp

富岡製糸場へのアクセス
電車:
東京から上越・北陸(長野)新幹線55分⇒高崎
高崎から上信電鉄35分⇒上州富岡 駅から徒歩10分
車:
東京から関越自動車道60分⇒藤岡IC 上信越自動車道15分⇒富岡IC⇒一般道5分

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