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「江 姫たちの戦国」を辿って

第5回 それぞれの運命を生きた戦国の女たち

北政所(ねね) ── 唯一、秀吉を諌めることのできた賢夫人

織田信長の家臣だった木下藤吉郎(豊臣秀吉)に、周囲の反対を押し切って嫁いだねね。

信長も称賛するほどの賢夫人で、時に励まし時に諌めながら秀吉の立身出世を支えました。秀吉とねねの間に子供はなく、親類縁者の子供を引き取り、ねねが養育を任されました。また家臣を可愛がり、細やかな心配りで誰からも慕われました。秀吉が天下人となれたのは、ねねの力があってこそといわれています。

秀吉が関白に就任してからは、北政所と呼ばれるようになりましたが、豪奢な暮らしに溺れることなく、秀吉と尾張訛りで話すような一面もあったといわれています。また秀吉は糟糠の妻であるねねを尊重していたものの、病的な女好きで淀殿(茶々)や京極龍子など多数の側室を持ち、たびたびねねを悩ませました。

淀殿が秀吉の世継ぎ秀頼を生んだことによって、ねねとの関係は大きく変わり、淀殿は次第に権勢を強めてきました。その最中、秀吉が亡くなり、暴走した淀殿と対立を深めたねねは大阪城を出て落飾。秀吉の菩提を弔いながら京都高台寺で静かに余生を送りました。
大通寺

高台寺

■高台寺
秀吉の没後、北政所が出家して開創。家康から財政的な援助を得て壮麗な寺観を誇りました。

秀吉と北政所を祀っている霊屋には美しい高台寺蒔絵が施されているほか、小堀遠州の庭、開山堂の華麗な天井、茶室の傘亭や時雨亭、臥龍廊など、ねねの寺にふさわしい風格と魅力にあふれています。

京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町526

大溝城址

ねねの道

北政所ゆかりの高台寺と園徳院があるあたりには、京都らしい風情がいっぱい。
一直線に伸びる石畳みの道は、正しくは高台寺道。

かつてこの道をねねも歩いたそうです。
細川ガラシャ ── 凛と生き信念を貫いて散った薄幸の美女

細川ガラシャ、本名玉は、明智光秀の三女として生まれました。

美女の誉れ高く、16歳のときに細川忠興と結婚し、一男一女を授かりました。しかし、玉が細川家に輿入れしてからわずか4年後、父・光秀が京都本能寺で主君である織田信長を討つという事件が起こりました。

光秀は、細川家に密使を出し協力を要請しましたが、忠興らは拒否。結局、光秀は秀吉らに追い詰められ謀反人として最後を遂げました。そのときの玉の複雑な胸中は計り知れません。
大溝城址

しかし、さらなる不遇が玉を襲います。謀反人の娘として忠興に離縁され、人里離れた田舎に幽閉されたのです。
2年後、秀吉に許され再び細川家に迎え入れられますが、今度は嫉妬深い夫から監禁生活を余儀なくされます。

そんな玉が生きる支えとして一筋の光明を見出したのが、キリスト教の教えでした。
キリシタン大名高山右近を通じてキリスト教に傾倒し入信した玉は、ガラシャの洗礼名を与えられました。
大通寺

マリアテレージア像

慶長5年、忠興が家康に従い上杉景勝の討伐に出陣中、石田三成によって細川邸が包囲されると、玉は家臣に自らの胸を突かせて亡くなりました。

武士の妻として敵に辱めを受けることなく、またキリシタンとして自殺を回避した壮絶な死は、宣教師によってオーストリア・ハプスブルグ家に伝わり、敬虔なキリスト教としての生き方はマリア・テレージアやマリー・アントワネットらに影響を与えたといわれています。



大溝城址

ハプスブルグ家の夏の宮殿 シェーンブルン宮殿

細川ガラシャの死から約100年後の1698年、ウィーン・ハプスブルグ家宮殿内のホールで、細川ガラシャの生きざまを伝える音楽劇が上演されました。

ヨーロッパ随一の名門と言われるハプスブルグ家は、政略結婚による領土拡大を続け巨大帝国を築きました。その中で犠牲になったのが姫君たちでした。

政治の道具として他国に嫁がされる自分たちの身の上とガラシャを重ね合わせ、ガラシャの生き方を称賛したのでした。また信仰心の篤さも、大いに感動させたといいます。

(写真はいずれもオーストリア ウィーンにて)
千姫 ── 家康の孫にして、秀頼の妻という過酷な運命

江と徳川秀忠の間に生まれた千姫。豊臣・徳川の融和のために、わずか7歳で豊臣秀頼に嫁ぎました。

政略結婚ではありましたが、兄と妹のように穏やかに暮らしていた2人の運命を方広寺大仏殿梵鐘銘文事件に端を発した大坂夏の陣が大きく変えてしまいました。
徳川方に攻め込まれ、炎上する大阪城から夫・秀頼、姑・淀殿とともに、千姫は山里曲輪に身を隠します。

しかし、祖父・家康の命により千姫のみが救出され、その後、秀頼と淀殿は自ら火を放ち自害しました。このとき千姫は19歳。
自らも2度の落城を経験し、夫や子供と別離したことのある江は、どんなにか千姫を不憫に思ったことでしょう。

大溝城址


江戸城に戻った千姫は、桑名藩主・本多忠政の嫡男忠刻と再婚。2人は仲睦まじく一男一女をもうけますが、嫡子や姑、母・江、さらに忠刻までもが相次いで亡くなるなど、不幸がつきまといます。

千姫は江戸城に戻り出家して天樹院と号し、縁切り寺として有名な鎌倉東慶寺の伽藍を再建。
千姫の嘆願によって助命された、秀頼と側室の間に生まれた奈阿姫が、後に東慶寺の住職となりました。
大通寺

方広寺鐘楼

■方広寺鐘楼
秀吉が家康の勧めで、奈良東大寺の大仏殿を模して建立。

度重なる災難により豊臣の時代のものは、高さ4.2m、外形2.8m、重さ82.7トンの巨大な大梵鐘しか残っていません。

この鐘には「国家安泰 君臣豊楽」と銘が刻まれており、これに徳川家康が因縁をつけて、豊臣滅亡のきっかけとなりました。

京都市東山区正面通大和大路東入る茶屋町527

大通寺

養源院

養源院
~豊臣と徳川の間で運命を翻弄されたお江が遺した寺

淀殿が、父・浅井長政と母・お市の方の菩提を弔うために秀吉の援助で建立しました。

養源院とは、長政の院号。 一度は消失しましたが、江が秀忠に願い出て不思議な巡り合わせで豊臣の寺を徳川が再興。以来、徳川家の菩提所として、歴代将軍の位牌が祀られています。

大溝城址


本堂は伏見城の遺構を移築したもので、徳川家家臣360名の血が染み込んだ血天井、俵屋宗達が描いた杉戸絵、左甚五郎作の鴬張りの廊下、さらに小堀遠州による作庭など、こじんまりした寺ですが、たくさんの見どころがあります。

京都市東山区三十三間堂廻り町 (三十三間堂の東側)

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