清子の思ひで
半年もすると、住居つきの店舗が出来上がった。店と奥とは中庭によって遮断されていた。家庭は全員根岸から車坂へ移った。根岸の店は古くからいる店員が責任者となり、支店と名付けられた。父は今度は逆に、根岸に毎日自転車で通う。震災後の東京も、復興、復興でまたたく間に新しい家が立ち並び、世の中は活気を呈してきた。家の商売も順調らしく、大勢の丁稚が入っても、間に合わないほどだった。
私の七五三も近づいて来た。紫地に菊や梅や紅葉がそれぞれ美しい色調で染め上げられた一越縮緬の長い袖、母が別染めをさせたらしく、この紫の色が何ともいえず良く染め上がったとほれぼれと眺めていた。私は早く着たくてむずむずする。毎日指折り数えてその日を待った。
十五日の青空が、かわいい七五三の子供たちを包むように晴れわたっていた。父と守護神の下谷神社に行き、のりとをあげてもらった後、社前で写真を撮った。父も紋付羽織袴姿である。「まあ可愛らしい。帯も変わっているわねえ」という傍らの声を聞き流しながら、澄まして歩く私も内心得意だった。ぽっくりの足取りも軽かった。矢の字にキリッと結んだ帯は、これも母の別染した朱地に変わり沙綾形が白く抜かれた単純なものだったが、紫地の着物と実によく調和していて人目を引いたのだろう。下谷神社から町内を私の手を引いて歩く父も、すごく誇らしげであった。母は家にいて帰りを待っていた。
あの頃の日本は?


宮内省から上野公園・上野動物園が東京市へ下賜され(昭和天皇の婚儀の慶事記念)、現在まで続く「上野恩賜公園」という名称となりました。