清子の思ひで
戦前の日本では、数えで年をかぞえた。
生まれてすぐに一歳で、年が明ければいくら新生児でも二歳になった。
小学校には、早生まれは七歳、遅生まれは八歳で入学した。その年の三月末までに生まれれば早生まれ、入学月の四月を区切りとしてそれ以降、年内いっぱいの生まれを遅生まれとよんだ。満六歳であることにはいまと変わりはない。もっとちがっていたのは、ほとんどの子が幼稚園へは行かなかったことだ。それだけに小学一年生にあがるということは、子どもにも親にも、緊張と感激が一ぺんに訪れる生涯忘れられない印象をきざみつけることになった。
待ちに待った小学校入学の日、小さなカバンを肩にかけ、新調の洋服を着せられて、母と共に入学式に出かけた。高々と前髪を高く二百三高地に結い上げた母は、うす茶地の江戸小紋のきものに一越縮緬黒の一つ紋の羽織、羽裏の朱のいろが時々のぞけるのも、女らしさが匂った。初めの四、五日の間は、母も一緒に登校して、親は教室の後に立って見学する。二日目、早くも授業が始まった。算術の時間だった。一から十まで先生に合わせて唱和する。その頃の子どもたちは、入学の前日まで精一杯遊ぶことに夢中で、十まで数えることすら知らない子が大半だった。幼稚というか、遅れていたというか、昭和の初めはそれが普通だった。そして、それもよかったのではないかと思っている。
何回も何回も、一から十まで声を出して覚えさせられたあと、こんどは「十から逆に数えられる人は手をあげなさい」と、受持の先生は皆の顔を見渡した。誰も手をあげない。ふいと見ると、左の黒板の横の上に、一から十までかいてあるのが見つかった。この反対をいえばいいにのだ。私は思い切って「ハイ」と大きな声で手をあげ、数字を見ながら得意になって読み上げた。簡単なことだからスラスラとできる。
「鈴木さん、良くできました」先生にほめられた私は、小さいながら第一回目の授業から自信がついた。何ともいえない優越感ががわいてきた。帰るみちみち、母も「算術のときにはっきりはっきり言えたわね。これからもどんどん手を上げてハキハキ答えるのよ」と嬉しそうに励ました。それから毎日、必ず学校から帰ったら、遊びに行く前に予習することを教えた。私は母の教えを忠実に守った。以来、小学校、女学校を通じて復習より予習に重点をおいた。入学第一日目の小さな成功は、幼い心に勇気と向学心を刻みつけてくれた貴重な体験となったのである。
クラスの人気も私に集中した。同じクラスに鈴木さんは二人いて、清子に、初子だった。先生は私を「清子さん」もう一人を「鈴木さん」とよんだ。登校すると、「清子さあん」と友達がとりまいた。おかげで、毎年の終業式には、必ず総代として免状を受けとりに、校長の前に進み出た。晴れがましい終業式の日のきものは、母が毎年新しく染めてくれた。えんじ色の無地の紋付のきもの、同色の三つ紋の羽織。羽織の長い袂には、御所解模様はこまかい糊置友禅で、赤青紫のさし色が上品に浮きあがって目立った。袴は紫紺染のチェニー羽二重で、色がよく調和していた。