清子の思ひで
海で真っ黒に灼け、首筋に海水帽のヒモのあとがくっきり抜けていることが、夏休みを終えて登校するときの、小学生のカッコよさのシンボルだった。
校庭で遊ぶときの激しさは、現代の子たちより活発というよりむしろ荒っぽかった。学習塾だの、ピアノ、お絵描きといった習い事は皆無だった。子どもたちは、思いきり体でぶつかり遊びに興じた。行き過ぎの面も間々生じる。
当時校庭でさかんに「馬とび」が流行していた。前こごみに首をさげた「馬」が五人ぐらいつらなる。その上に、ハズミをつけて思いっきりかけ出した子がとび乗るのである。何人乗ったか、多いほど勝ちなのだ。お転婆な私は、一番乗りを志願し、次々に私の背の上にかぶさっていった。いままでになく多く乗れて、これは勝ちだ、と思った瞬間、馬がくずれて来て、ドドドドッと地べたにつぶされていった。ア、アと思う間もなく、一番乗りの私が一番下になって、どうしたはずみか、足を骨折してしまい、全く歩けない状態となった。休んだことのない私も、二か月登校できない羽目になった。
その間、毎日のように小さな仲間が見舞いに来てくれた。少しでも早く癒そうと、父母もあせって、アチコチ骨つぎの門を叩く。最後にたどりついたのは、根岸の電車通りの交差点から二軒目、白く塗られた小さな病院風の治療院で、いままでと全くちがった治療によってメキメキ全快していった。その嬉しさは忘れられない。
当時のことで思い出すのは、治療院にいくとき、必ず根岸の支店の前を通る。私は誰もみていないときを見計らい、支店に向かって最敬礼をした。小学生なりに感謝の意を表したかったのだが、このことは家に帰っても、なぜか恥ずかしくて口には出せなかった。