清子の思ひで
母は表面に出て目立つようなことの嫌いな人である。芯のしっかりした、記憶力のすぐれた、まさに良妻賢母型である。すべて綿密な配慮をする思考型でもある。折目筋目がはっきりして、不正直ないい加減な人間は、特に嫌った。“人間の屑”といって相容れなかった。
埼玉県越谷の大地主の子として生まれた祖父、つまり母の父は、明治維新で江戸から東京に変わった、世の中が一変した時代のなかで、地主の長男としての安住に耐えられず、弟に跡目をゆずった気性の強い性格だった。幼い母をともない上京してきたが、その一徹な気性は、母の血の中に流れていた。
昭和三十二年、イトーヨーカドー越谷店の開店に、テナントとしての出店を要請されたとき、現在では考えられない、当時のサバーバンでの鈴乃屋進出に大きな抵抗があった。それをあえて行った理由は幾つかあるが、その中でとくに、イトーヨーカドー社長の商人としての一途な精神が、祖父と相通じ、また越谷の土地いうにいわれぬ郷愁を感じたことも、大きな要素であったことは否めない。
上京した母は、少女に成長すると、細川越中守の御祐筆にお習字と行儀を見習った。字が上手だったことと、礼儀の正しかったことは、その時点での教育のせいであろう。下町育ちは半面、粋きな環境からも影響した。近所の常磐津の師匠にもつき、素質はすばらしいと見込まれて、子のない師匠から跡継ぎを請われたほどだ。「何を言っている。堅気の娘にとんでもない!」言下に祖父はカンカンになって断ったそうだ。
母が嫁入りのときに持ってきた三味線二丁は、いつも居間の壁にかけられたままだった。小さい私はいつも不思議に思っていたが、ある日、「どうしてお母さん、三味線弾かないの」ときいた。「お父さんが嫌いだからだめなの」、あきらめきった執着のない返事だった。
芸事が嫌いな父は、私にもとうとう一切習わせなかった。長唄も清元も、常磐津も、ラジオから流れてきても区別がつかない。そのたびに母にたずねる。母はさすがに、即座に答えてくれた。「いまやっているのは清元よ」「どうしてわかるの?」さすが詳しく説明してくれるが、とうとうわからずじまいだった。母の三味線袋はついに永久に開かれなかった。