清子の思ひで
父の生まれ故郷は福井県武生である。暮れになると、大きなずわい蟹がたくさん親戚から送られてきた。小さな子どもたちは、このご進物が届くと、ワイワイとびはねて喜んだ。その包丁だけは父が握って、手さばき鮮やかにこしらえてくれた。ただし、その礼状だけは必ず私に書かせる。女学校一年生くらいからなんとなくそう決まった。「おい清公、礼状書け」、否も応もなく、帳場に連れて行かれて書かされる。父は候文を口で言い、私が代筆する。年中行事になっていった。そのためか、私の字はいまだに女らしくない。
父はひとくちに言うと、“豪放”の人であった。
祖父鈴木儀右衞門は、維新の雄、橋本左内に傾倒していた。ブレーンでもあり、資金調達も引き受けていたらしい。左内の裏面でつねに援助を怠らなかった。そのために、ぼう大な土地や山林が次々に失われ、父が生まれると間もなく死亡した。残された祖母は、大ぜいの子供を抱え、その苦労は並大抵ではなかったようだ。末っ子の父は、福井県覚伝寺に僧となるべく入門させられる。仏教の盛んなこの土地では、僧門に入ることは家門の誇りらしかった。
法名夢覚といった父は、時々永平寺にも修行に行ったらしい。腕白で手のつけられない父が、名僧になる素質も希望もあるわけがなく、本人もすきがあらばと脱出をもくろんでいたようだ。ついに十六歳のとき挙行となる。
母親にも告げず、着のみ着のままの法被一枚で夜行列車に揺られながら、上野に住む兄の許に突然あらわれた。御召列車の機関手をしていた十五歳も年上の兄は、おだやかな人柄の人。一時は驚いたが、どっちみち言っても聞かない性格、子供のない家庭であったから、末弟はわが子のように思えたにちがいない。
父は結局、兄の世話で隣地の西町に古くから在住していて、当時としてはもっとも新しい武器だったミシンを使って、男物の肌着の製造卸をしている店に奉公に入った。なぜこの職業を選んだか、聞いたことも聞かされたこともない。恐らく兄は技術屋、弟も手に職を、と思ったのかもしれない。
兄は人格厚遇、弟たちの信頼を一身に受けていたが、大正六年に御召列車機関車故障の修理中、不慮の最後を遂げた。当時としては名誉の死であった。
「本当に惜しい、立派な人」だったと、母から何回となく聞かされた。母にとっても尊敬の人、義兄であった。母が大丸髷に赤い手絡(てがら)をかけて、紺とねずみに細く朱の入ったお召の着物、帯はクリーム地の羽二重の友禅染に裏が黒襦子の原合帯をしめて、ご機嫌伺いにいくと、たいへん喜んで「お乃婦さんはその着物がとても似合うよ」と言ってくれた・・・・・。
はたちそこそこで、鼻筋の通った母の嫁姿が目に浮かぶ。父は見合いを二十四回して、二十五回目でやっと母を決めたそうだ。
次回予告
「第八回 二足のわらじ」